2014/11/24発行 『ねこまた2巻』 試し読み04

星の井

坂鴨禾火

 鎌倉駅に電車が着いたのが十二時十四分過ぎ、約束の正午から十分あまりも遅れて着いたが集合場所に決めた改札の前に見知った人影は一つしかなかった。他の面子は先に行ってしまって、留守役に一人を後に残していったのだろうか。

 電車が着いたことには気付いているのか読んでいた文庫から顔を上げて、人の流れを追うようだったが改札に背を向けているせいでこちらにはまるで気付いていない。慣れない乗り換えで迷って遅刻をしたんだと改札の向こうに見える友人のシャツの背中に内心あれこれ言い訳をしながら、夏の週末で、海や遊山の人で混雑している改札を抜けようとした。

 抜けられなかった。改札が鳴る。

 改札の鳴る音はさほどけたたましくはなかったが、改札の久賀がこちらを向いた。学校で見るのとあまり変わらない。夏期休暇の間も部活動がある生徒はたびたび学校に顔を出すことになっていたから、髪の色はあまり派手に変わることはなかったが、それでも私服でいると見分け辛い。わかりやすい久賀が残っていたのは幸いだ。ひとまず胸をなで下ろして、後ろも人で塞がれてにっちもさっちも行かない無沙汰に一応の挨拶をする。

「遅れた」

 クッション材にくるまれたストッパーが行く手を塞いで、進むことが出来ずに後戻りすると背後に出来ていた人溜まりが鈍く動いて左右の空いた改札へ流れる。

「大丈夫だよ。そんな待ってないし」

 人はおおかた駅の左手にある小町通りに吸い込まれていくようだった。鳩サブレの店の前でも固まっている。久賀は人波を避けて改札の柵にもたれて立っていた。精算を済ませて外に出るとやあと今度は先方が手を軽く挙げた。

「他に誰が来てるの」

 人混みに背を向けて歩きだそうとするのを捕まえて聞くと、不思議そうな顔をしていないよと言う。ならば他の奴はどこにいるんだと聞くと、友人はいっそう狐に摘まれたような顔をして、もう他に誰も来ないよと言ってすたすた歩き始めた。歩くほど人が少なくなって、松林を道へ無理に直したような道を歩くのは他に二人ばかりしかない。

 道路の表示を見ていた久賀が、みんな塾とかじゃないかなと付け加えた。

「二、三人はメールくれたけど都合があわなくなったり、他の用事が出来たりだった。あとは清戸がメール寄越したきりだったから」

 遅れて着くって連絡があったからかえって安心した——と言った久賀の向こうで松林が切れて、水平線があるのか何もない空間がぼんやり開けていた。傍らを走っていく車の屋根にはサーフボードが積まれている。箱のような車内に遊山の道具に混じって露出の多い男女が焦げた肌をさらしている。あのあたりが海かなと久賀に聞かれたのについつい生返事を返してああと言った。知らない土地でどこが海なのかなど知りようがない。

 横を行く久賀の格好は指定のスラックスが帆布のような木綿地に変わったくらいで、白い半袖も野暮ったく裾がしまわれている。休み時間によくつるんでいるとは言え久賀の印象は薄い。二人、三人と集まる中なら仲間内にそれぞれの立場や持ち場があって話を盛り上げたり転がしたりしていくものだが久賀はごくごく控えめに、相槌を打ったりする他は目立つ働きはしていない。遠出の話が出たときに予定のすり合わせや問い合わせをよくしているのを見かけたが、あまり表だって意見を言う器でもなかった。一度、仲間内で出かけたときに、そんなことばかりして面白いのかと久賀に聞いたことがあったが、どちらかと言えば自分は裏方の方が向いているのだと久賀はそのとき言っていたような気がする。今は完全にそれが裏目に出た。

 知られないようこっそりと溜息を吐く。

 なぜ久賀は海に行こうなどと言い出したのだろう。声に出さないつぶやきだったから隣を歩く友人からは当然答えなど返って来ない。いつもなら吉岡か、加藤か、そのあたりが言い出しっぺで、横で聞いていて青写真を提示するのが久賀であったから考えるのは久賀の役ではない。人が来なかったのも、多分言い出しっぺが他にいなくて、行こうと思ったのも計画を立てたのも久賀が一人でやったからだ。審議を経ていないから、同意もとれていない分弱いのだろう。

 それでも久賀は気にした風もなかった。人がいてもいなくても、大して変わらないような調子で歩いている。

「何で海に行こうと思ったんだよ」

「行きたいって思ったからだよ」

 もうじきに海だよと久賀が言って、ふと課題図書は読んだのかと聞いた。今年はまだ手をつけていない。

「結構面白いよ、あれ。早く読みなよ」

「まだ一月もあるだろ。何だっけ……たしか下宿の娘さん巡って三角関係になる奴」

 そんなこと言ってるとすぐだよ、と口をとがらせた久賀の向こうに鎌倉の海が見えた。

 生まれてこの方海を見たことが無い訳ではなかったが、知った海とは大分勝手が違った。ずっと右に行けば湘南だねと久賀が言ってやっと違和感の正体に思い至る。海の色彩が違うのだ。知っている海は家族連れがぽつぽついるだけで、貝の潜った穴が濁った塩水を吸い込んでいる地味な色合いだったが、今見る鎌倉の海は明るい色彩の男女にまみれて足の踏み場もなくなっている。思わず足を止めた。思ったよりずっと賑やかだねと横に並んだ久賀も足を止めて呟いた。

 「鎌倉って言うからもっと静かな海かと思った。波は静かだけど」

 行くか、と先に足を踏み出したのはやはり久賀であった。鎌倉に着いてからずっと久賀の横顔と、背中ばかり見ている気がする。そう思っている間に久賀は五歩も六歩も先の道を歩いていたのであわてて追いかけようとして足が止まった。

「おい、——」

 何と言って久賀が振り向いた肩を見てもやはり荷物が少ない。水着やタオルやらを詰めた鞄のファスナーが、自分の方の下でちんと鳴った。久賀はほとんど手ぶらだ。水も入らないようなポーチを片手にぶら下げているだけで他に荷物はない。そのポーチも改札で読んでいた文庫を入れるとき、財布と手拭い一本が入っているのを見たきりだからよほど中身が入っていないはずだ。だって手拭いならぶら下げておけば乾くよと言って久賀はベルト通しを差した。

「水着はどうすんだよ」

「水着?」

 持ってこなかったけど言った。余計頭が痛くなる。急拵えと思しい屋台の軒先に女物の水着や浮き具がぶら下がって風にだらりとなびいていたが、この男は海で何をするつもりだったのだろう。はじめから泳ぐことは考えになかったらしい。ただ海に来たかっただけみたいじゃないかと思わず漏らすと、久賀も答えてそうだねと言うのでますます調子が狂った。そうこうしているうちに久賀はまた歩き始めてまっすぐ海へ向かっていく。

 沖に向かってぼんやり立ち尽くしている久賀の鞄を拾って、おい腹が減ったと叫んでみても久賀は答えなかった。靴を脱いで、本の入った鞄は靴の上に置いて海に入っていった。寄せた波に水が飛んで、思い出したように裾もまくる。そのまま脛の中程の深さで立ち止まっている。

 浜に置いた久賀の鞄を仕方なく拾って屋台へ歩いた。屋台はどこも同じ様なものを出して同じ様な値段だった。もしかしたら少しずつ違っているのかもしれなかったが、いい加減腹が減っていたので気付くほど注意が行かない。近くにあった屋台で焼きそばとホットドックを頼みながら、久賀の分も買おうかと迷って、ふと振り返ったときも久賀はまだ沖に向かって立っていた。

 先に頼んで出来ていた焼きそばの包みを受け取ると、ホットドックをもう一つ追加で頼んで砂の上に座った。久賀はまだ立っている。暑くはないのかなと思った。帽子を置かない髪を潮風が揺すったが、水の上には照り返しもあったし、泳ぐなら頭から水をかぶれば涼しいものを、ただ立っているだけだからきっと暑い。二つ目のホットドックに手を出すか出さないか迷った挙げ句、ふとかき氷の屋台が目に留まって、食べ物の容器の蓋を輪ゴムで止めてもう一度海を省みたときも相変わらず同じところで立ち尽くす姿がまるで影法師だった。まるで何かの影のように立ち尽くして、動き出すまで手持ち無沙汰にしているようだ。結局何がしたいのだろう。何度も同じ問いにはまってしまって答えは相も変わらず出ない。

 かき氷を買った。今度は迷わず一人分にする。

「はい」

 氷の入った硝子碗が手に二つ載せられる。両手が冷たい。

「二つともレモンでいいかい」

「一つしか——」

「友達の分だよ」

 勝手に作って代寄越せとは言わんよと言いながら、店番の婆はしなびた胸元を開けて団扇をあおった。団扇の方も日に焼けて半分骨になっている。氷を持ったまま呆然としていると、なんだいと言った。ぎろりと目を剥くのが昔絵本で見た肋屋の鬼婆めいているが、後ろが荒れ野ならともかくここは夏の海だったからただの婆にしかならない。骸骨もただの竹の骨だ。

「人が親切にしてやっているのに。持って行って食うんなら早くしな。器は後で纏めて返してくれればいいから」

「あの、」

「ああいう子はね、死ぬよ」

 強烈な日差しがかげった気がした。婆は相変わらず団扇を使いながら、あたしも浜で随分長いこと見てるんけどねと久賀を見て言う。

「氷以外にもいろいろあるが、海の近くで小間物商いをしているとたまにいるんだよ。一人で来て何も持たずにぼうっとしているとか。何となく釣り具を買って見るけど使い方がわからないで持って眺めているだけとか。そうそうあることじゃないけど、やっぱりそういう客は印象に残るから。たまに岩礁のところで死体が引っかかっているとあのときのお客だってすぐわかるんだよ。だから」

 あんたよく見ときなきゃ駄目だよと婆が団扇の手を止めた。

「あんたはまだ大丈夫そうだから。ああ、でもこりゃもう駄目そうだってなったらすぐ逃げるのも大事だね。巻き込まれたら元も子もない」

 そこまで一息に言うと急に冷めた口調で毎度と言った。団扇の骨の先で追い返すように風をよこした様だが、骨ばかりなのでそよともしない。海はとろとろ凪いでいた。

 久賀に氷を持って行って、貰ったんだというと久賀は初めて笑みを浮かべてじゃあ貰うと言った。さすがに暑さがこたえていたのか、ありがたいありがたいと銀の匙を何度も口に運んで、後から来た頭痛にこめかみを触っている。あきれ果ててものも言えなかった。何となく腹が立ったので器の返却を久賀に任せて自分は砂浜で見ていると、氷屋の婆はにこにこしながら久賀から器を受け取ってどこから来たんだい学生さんかと聞くようだった。調子を同じに合わせて久賀が答えている。婆は少しは世辞も愛想もあるようだ。

「お礼言ってきた」

 戻ってきた久賀がそう報告したので、そうかと答えた。

 自ら死ぬよと宣言した相手をして愛想が良かったと語らしめるというのはどういうことなのかと考えてみる。

 ——あの婆、押しつけたな。

 人聞きは悪いがそういう結論に至った。見知らぬ他人よりも友人の方が意見をすんなり容れられるかもしれないということはあるかもしれないが、それより久賀とはなるたけ距離を置こうとする方策に見て取れなくもない。判っていた上で通り一遍のことを聞いて、にこにこしていれば遠すぎない代わりにある程度の距離は保てる。遠くから風体を見て、死ぬといっても婆の予言通り十人が十人死ぬわけでもないことは婆の口振りで判ったから万が一ことがあったときの為に、あのとき言っていればということを避けるために、友人と覚しい清戸に声をかけたのだ。つくづく嫌な見方だなと思った。婆も、それから自分も、知らなければ知らないまま素直に過ごしたり悲しんだりすることが出来たはずなのだ。あれは死ぬと見抜いてしまう婆の目も嫌だったし、婆の態度をそんな風に思う自分も嫌だ。

 氷ははじめから一つでよかったのに、と思った。

 海から上がってようやく腹が減っていたことに気付いたのか、久賀はまたぶらぶら出かけていって近くの屋台を見ている。陸に上がってきたから預かっていた鞄は返したが、今度は財布だけ抜き取って置いていってしまったからやっぱり鞄は近くにあった。中に携帯電話とカバーの掛かった文庫本が見える。そういえば久賀は課題図書がなんとかと言っていた。中にあるのはきっとその本なのだろう。くたびれた桜色のカバーは後から久賀が掛けたものらしかったが、自分の持っているものと内容は同じだろうし早く読めと言ったのは久賀だから遠慮なく借りて読むことにした。私が、という一文で始まっていたから、ははあ一人称だなと思った。話は鎌倉の海から始まっていた。

 ——確か学生が痴情のもつれから自殺する話ではなかったか。

 加えていた匙の先から冷たいものが口の中を通ってそのまま背中に落ちていくようだったが、本の中の一人称は相変わらずのんびりとした夏の海について語り続けている。長い畷を越えるとアイスクリームや玉突き場があると言うから、辺りを見回してみたが見た限り玉突きなど古式ゆかしい看板を掲げる店はどこにも見えなかったし、そもそも畷というのは何のことだろうとも思った。

 ようやく焼きそばの包みを持って戻ってきた久賀に長谷とはどこだと聞くと、陸を見て少し悩んでいたようだがよく判らないと言う。

「なんだ読んでたの」

 教科書に載っているのは最後の方だよと久賀が言って包みを開けた。割ったばかりの箸で紅生姜を器用によけながら、清戸は推理小説は途中で後ろから読み始める方だろうと言う。そんなことはけしてなかったが、否と言えず曖昧な返事を返した。氷屋の婆の予言がある。本と予言と、共通するところが何となくある。

 死ぬのは栞を挟んだところだと久賀が食べながら言った。

「感想文書かなきゃいけないから。——ねえ清戸、宿題本当に大丈夫なの。たしか前作文は嫌いだとか言ってなかったっけ」

「嫌いだよ。嫌いだとやり始めてもいつまでも終わらないから、休みが終わる直前まで放っておくのが一番いいんだ」

 呆れた様な口にキャベツを放り込んで久賀はしばらく無言だった。何かを考えているらしい。そのまま二度三度そばを口に運んでからおもむろに、鎌倉に行ったことでも書けばいいんじゃないのと言った。

「一番最初は鎌倉から始まっているから、適当に絡めて、実際にいってみたんだけどはっきりしませんでしたとか書けば」

 上手く纏まらなかったらそうするつもりだと久賀が箸を置いた。

「もっとも、最後まで読む必要はあるんだけど」

「最初が鎌倉なら最初だけでよくないか」

「駄目だよ」

 手を抜くなら先生の手紙だけ読むのが得策だと思うな、と久賀が言うので、墓参りが何とかというあたりにさしかかっていのを中断して後の方をめくると、確かに遺書という章があって、手紙とはこのことかなと思いながらめくっていくとまた夏だった。夏の海である。栞があるのはもっと後だったが、この話は基本的に夏から始まるらしい。

「珍しく久賀から誘ったのは、作文の為だったのか」

 夏っぽいことをしたかったからねとのんびり久賀が言った。確かに鎌倉に行ったことならそんな面倒も無いが、冗談ではなかった。全部読まねばならない。それに氷屋の婆はまず間違いなく出てくる。食べ終わったようなので先に買ってあったホットドックを勧めると頁を繰った。

「借り賃」

「じゃ、遠慮なくいただく」

  久賀は一口食ってしばらく咀嚼していたが、その話はやたら繰り返し似たようなことを言うね、とようやく空いたらしい口で言った。

「事実繰り返し似たようなことがある。その後で当時はあなた方とは違って、とか来る。手紙の内容が一度過去に遡って振り返り振り返りしながら書いてあるせいもあるけど、郷里から手紙が来たり、あるいは身の回りの状況とかが、どことなく似通った人物が出てきたりする気がする。でも実際は少しずつ違う」

「ふうん」

 斜め読みがようやく栞のところまで到達する。確かに死んでいた。

「と言うことは、繰り返し人も死ぬのか」

「どうだったっけ。先生の友人が死んで、主人公の父親が危篤になって、確か明治天皇と乃木大将が死ぬんじゃなかったかな。それから最後の方では下宿先のおかみさんも死んだ」

「明治天皇はさすがにもう死んだだろ」

 頸動脈という単語を見つけて少しだけ前に戻って読み直す。その時は生きていたんだよと久賀が言った。

「いったいいつの話だと思っているんだ」

 頁をめくる合間に呆れ顔の久賀が見えた気がしたが、それを無視して本に戻った。婆に警告をされた以上、迂闊に目を離して久賀を死なせるわけには行かなかったが、仮に久賀が死のうとしても人目の多い海水浴場なら少しくらい目を離したところできっと誰かが気付く筈だ。頸動脈という単語が出たのは事件が起こってからしばらく後らしい。来た道を引き返して読み直すと四十八というところで人が死んでいる様だが章の入り方が妙だった。何だか妙に長い饂飩を啜っているような感じだと言って更に前の頁に遡って読もうとすると、やっぱり呆れたような顔で久賀が見ていた。

「素直に前から読めばいいのに」

 婆が変な予言をしたからとはやはり言えずに、いいじゃないか、とだけ口をとがらせて返すのが精一杯だった。そもそも男二人で海に来ようというところからして間違っている。色気もあったものではない。そう言うと、久賀はそれもそうだねと言ってしばらく無言になった。

「じゃあもう帰るか。僕も海は満喫したわけだし」

「あれでいいのか」

「それ以上しようがないことは判ってたんだから」

  来た道を戻って鶴岡八幡でも見に行こうと久賀が言った。大仏もそう遠くないらしい。けれども地図がなかった。駅まで戻れば本屋でも案内所でもあったはずだから何とかなるとは思って、じゃあ駅まで戻ろう——と言いかけたところで久賀が江ノ島は、と口を開いた。

「海に沿って、ええと稲村ヶ崎とか、七里ヶ浜とか、浜を伝って歩いていけない距離でもなかったと思う。たぶんあっちの方。平行して江ノ電とかも走っていたはずだから疲れたらそれ乗ればいいし。それに海だし」

「やっぱり海なのか」

 そこまで言うと思い出したように、付き合わせて悪かったなと久賀が言った。言うのが少し遅い気がする。

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