祖父から譲り受けた苔色のハンチング帽をかぶって、遼は玄関の姿見に自分を映した。シャツに着物に袴、という時代錯誤な格好。日本広しといえども、書生スタイルが普段着の男子高校生などそうはいないだろうと、遼は複雑な表情を浮かべた。歳の割には小柄で、幼さの残る顔立ちをしている。しかし表情に浮かぶ憂いは、幾年もの間抱え続けているものをにじませて、妙に老成していた。
遼はブーツに足を突っ込み、紐を固く締めた。顔を上げる。片田舎に建つ平屋の家は、正面玄関がガラスの引き戸だ。それを、防犯意識が低いなどとは誰も思わない、平穏な地域だった。
遼の背後でふすまの開く音がした。振り返ると、寝間着にすっぴんの母が、廊下に顔を出していた。
「りょうちゃん、どこに行くの、こんな夜中に?」
眠たげだが、怪訝な様子もはっきりと表れている。遼は小さく笑った。
「友だちと花火。受験勉強でストレス溜まるから、たまには息抜きしよう、ってさ」
「そう。気をつけてね」
母は納得していないようだったが、質問を重ねてくることはなかった。そもそも遼の口から、友だち、という言葉が出ること自体、珍しいことである。母は、追及したくてたまらないという顔をしているものの、それを実行に移すような親ではなかった。遼の書生スタイルには、とっくの昔に慣れてしまっているので、あえて指摘してくることはない。
この家から、祖父の気配はとうの昔に消えていた。今日の昼間には、三回忌の法事があった。葬儀には大勢いた親戚も、法事となると半数も集まらない。それでも母は一日その対応に追われており、大学の秋休みを満喫していた姉も実家に呼び戻されて手伝っていた。そんな騒がしさが嘘のような、静かな夜だった。
遼は玄関の引き戸を閉め、鍵をかけた。懐からちりめんのガマ口を取り出して、鍵を入れる。生垣の切れ目に設けられた門は、遼の幼いころにはまだ木造だったが、壊れたためにコンクリートブロックと金属で造り直されていた。もっとも、その工事に祖父は大反対し、しばらくの間ふてくされていたのだが。
遼は空を見上げた。雲が重たげに垂れこめており、よどんでいた。大きく息を吸う。雨のにおいはしなかった。代わりに、色づき始めた稲穂の、まだ青さの残るにおいが辺りを満たしていた。田んぼの向こうに見える雑木林は夜の闇にまぎれて、ただ黒々とした塊に見えた。
遼は雑木林に向けて歩いていった。街灯もない田舎道だ。足元もほとんど見えないはずだが、遼は何につまずくこともなく、昼の道を歩くのと全く変わらない様子で歩いていった。
遼がふと立ち止まった。再び、空を見上げる。
雑木林へ向けて、丸い光が飛んでいくのが見えた。一つ、また一つ。大きいが強くはなく、優しい光だった。そのほとんどが、温かそうな黄色や、落ち着いた白や、穏やかな薄青色をしていた。光が通ると、まるでそれに払われたかのように、雲が薄らいでいく。
光は次々に集まってくる。空の彼方から飛んでくるのだ。速さは様々だ。その数は、百にものぼるかと思われた。
遼は自分の足元に目を落とした。ブーツで地面を叩き、息を吸う。が、それ以上は何もせず、彼は吸ったものをため息にして吐いた。雑木林へ向け、また歩きはじめる。
雑木林は丘に沿っており、中を貫いて遊歩道が設けられていた。丘の上には公園がある。とはいえ、ベンチとブランコしかない、ただの原っぱだ。遼は家から二十分ほどかけて、その場所へたどり着いた。
さきほどまでの曇天が嘘のように、空はすっかり晴れた。月のない闇夜である。星々のまたたきが、夜空に美しく映える空だった。
原っぱには光が満ちていた。そしてそこに、大勢の人々が集まっていた。光は、彼らが手に持つランプや杖や、そのほか様々な道具が発しているものだった。人々はみな、現代社会には決してなじむことのない服装をしており、帽子などで頭を覆っていた。人種は様々だ。肌の色も、目の色も、髪の色も、口から発せられている言語さえ、全てがまるで違う、多種多様な人々だった。しかし、これが無秩序な集まりだとは、とうてい感じられない雰囲気である。服装と帽子、そして手にしている光は、これらの人々が共通のものによって結ばれていることを感じさせた。
人々は杖や箒や本や、その他あらゆる道具をそれぞれ手にしていた。チャイナドレスをまとった女性は扇を振り、アラビア風の青年は水煙草をふかしている。また古代ローマを思わせる格好をした娘は葉のついたヤドリギの枝を掲げ、アルプスの山でヨーデルを歌っていそうな格好の太った老人が持つのは、バイオリンである。その中にいては、遼の書生の格好は、かえって溶け込み馴染んでいた。
遼はまぶしげに目を細めた。と、遼がその場へ到着したことに気付いた一人が、周囲に彼の到着を知らせた。ざわめきが広がる。遼は居心地悪げに肩をすくめ、身を引いた。
空から、明るく弾けるような声が降ってきた。
「リョウ!」
遼は表情を変えず、その声の主を見上げた。とんがり帽子に黒のワンピースとマント、またがっているのは芝箒と、典型的な服装をしている女性だった。
彼女は地面に降り立った。箒の柄の先に、柔らかな乳白色の光を灯している。そして遼に向け、早口の英語で何やらまくしたてた。目線の位置が、遼よりも少しばかり高い。白い肌、赤い髪、青い瞳のイギリス乙女である。外国人であることを差し引いても、遼よりも歳上であるだろうとわかる。遼はわずかに眉根を寄せて、首を横に振った。彼女ははたと気づき、遼の耳元で、ぱちりと指を鳴らした。
「相変わらずなのね、リョウ」
「ありがとうパメラ」
遼は目を伏せた。
ここに集まったのは皆、一人残らず魔法使いであった。
パメラは片手を腰に当て、遼の目を覗き込んだ。
「今日も見事に愛想がないわね」
「うん、ごめん」
遼は目を逸らす。パメラは遼の肩を叩いた。
「あなたが泣いたってわめいたって、誰も何も言いやしないわよ?」
だって、とパメラは、声を抑えた。
「まさか、グランドフェイク……あなたの先生で、おじい様、その人が、本当に亡くなるなんて」
目を伏せ、声のトーンを下げる。
「誰も、想像さえしていなかったもの」
遼の祖父、頑作もまた、魔法使いだった。それも、世界に名をとどろかせる、高名な魔法使いだった。ガンサク、という音から贋作、つまり偽物とかけて、グランドフェイク、と称されていた。
「九十歳、普通の老人ならともかく、まだまだお若いのに、どうして亡くなることを選ばれたのかしら」
パメラは悲しげに呟き、答えを求めて、遼に目をやった。遼は彼女と目を合わせないまま、ゆっくりと言葉を返す。
「先生は魔法使いだから、余計に、不自然なことが大嫌いだった。だから、自然に死にたかったんだよ」
だって、と彼は目を上げ、やっとパメラと視線を合わせた。
「僕の両親も、親戚も、猪田頑作は二年前に死んだと思ってるんだ。本当は、その日に死ぬはずだったんだから」
その目には、抗議するような光があった。パメラは意外そうな顔をする。
「グランドフェイクが、名前と正反対の信念を持ってる皮肉ジジイだってことは、まあ有名だったけど……でも、ならどうして、今日まで生きてきたのかしら」
遼は首を横に振り、わからないよ、と拗ねたような声で返した。パメラは唇を尖らせたが、すぐに思い直して、遼の手を片手で取った。
「ごめんなさい、あなたが誰よりも悲しいはずなのに、わたしったら」
遼は口元に笑みを浮かべたが、それは自嘲的なものだった。
「そうだね……でも、正直、ちょっと安心してる」
なぜ、とパメラが驚きの声を上げる。遼は歪んだ笑みのまま、言った。
「だって、周りはみんな、先生は死んだって認識なんだよ。僕だけが、ずれてたんだ」
その顔から笑みが消える。
「やっと、僕は周りと同じになれる」
「周り。あなたの言う、周り、って、魔法のことを、なあんにも知らない人たちのことでしょう?」
パメラは遼に顔を近付けた。遼は身を引き、そうだよ、と応じる。パメラは気遣わしげな表情を浮かべた。はたと気づいて、手に持っていた箒を投げる。箒は空中に溶けるようにして消えた。そうして両手を自由にしてから、パメラはその手で遼の頬を優しく挟んだ。
「ねえリョウ……」
彼女を見つめ返す遼は、無表情のままだ。
「僕は、自分では飛ぶこともできない。風を呼ぶことも、外国語を聞き取ることも、怪我や病気を少しの間忘れさせてあげることも、なにもできない」
淡々とした声だった。
「僕は、魔法使いにはなれない」